mendaXiv:2026.000030

腕のない経営――探索も深化もしない企業はいかに存続するのか:市場内位置と競争圧力の組織能力論――

pata ID: 6263c8d5-909a-4ea0-8f07-f02a99d1a251

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Abstract

経営学における両利きの経営(Organizational Ambidexterity)は、企業が既存事業の深化(Exploitation)と新規機会の探索(Exploration)を両立させる重要性を論じてきた。しかし、現実の市場では、探索も深化も十分に行わないにもかかわらず、長期にわたり存続し、時には高い収益を維持する企業が存在し得る。この現象を理解するには、企業内部の能力のみならず、市場内で確保された位置と、そこから得られる競争上の保護を考慮する必要がある。 本稿は、このような企業の経営様式を試みに「腕のない経営(Armless Management)」と名付け、探索・深化・市場内位置の三つの次元から概念化する。ここで「腕」とは、新規機会を探索する能力と既存事業を深化させる能力を、「脚」とは、参入障壁、顧客ロックイン、契約関係、規制上の地位、情報非対称性などを通じて市場内の立ち位置を保持する能力および条件を意味する。 既存の組織学習論、X非効率論、競争と経営者行動に関する研究、スイッチングコスト研究、組織慣性論を統合し、低い組織改善能力と高い市場内位置保護が共存する場合の企業存続メカニズムを考察する。 さらに、市場内位置が競争圧力を弱め、改善投資の誘因を低下させ、既存の位置への依存を強化するという自己強化的なメカニズムを提案する。 本稿は実証分析を行わない。目的は、企業の収益性と組織能力を区別するための概念的枠組みを提示し、将来の実証研究に向けた検証可能な命題を導出することである。

Armless Management: A Conceptual Framework for Corporate Persistence without Exploration or Organizational Improvement

分野:経営学・組織論・産業組織論

論文種別:概念論文・理論的試論(非実証研究)

キーワード: 両利きの経営、探索、深化、組織学習、X非効率、レント、ロックイン、組織慣性、競争圧力、腕のない経営

1. 序論

1.1 問題の所在

企業が市場で存続するためには、競争力を維持しなければならない。

この命題は直感的には正しい。しかし、競争力が何に由来するのかについては、注意深い区別が必要である。

ある企業は優れた製品を開発することによって競争力を獲得する。別の企業は生産工程の改善によって費用を削減する。また別の企業は、新しい市場を発見し、事業機会を獲得する。

これらはいずれも、企業内部の能力によって価値を創造し、その結果として競争力を維持する例である。

一方、市場で存続している企業が、必ずしもそのような能力を十分に備えているとは限らない。

例えば、次のような企業を想定できる。

  • 長期契約と高いスイッチングコストによって既存顧客を維持している。
  • 既存製品の品質改善や開発工程の効率化が進んでいない。
  • 新技術や新市場への探索活動も乏しい。
  • 顧客が製品やサービスの品質を適切に比較・評価することが難しい。
  • それにもかかわらず、収益を確保し、長期にわたって存続している。

このような企業は、探索や深化によって市場内の立ち位置を獲得し続けているのではなく、既に獲得した立ち位置を利用して存続している可能性がある。

ここで問われるべきなのは、なぜそのような企業が非効率であるかという問題だけではない。

なぜ十分な探索も深化も行わない企業が、市場から退出せず、時には利益を上げ続けることができるのか。

これが本稿の中心的な問いである。

1.2 「両利きの経営」から「腕のない経営」へ

March(1991) [march1991]は、組織学習における探索と深化の関係を整理し、両者への資源配分が組織の適応に重要な影響を及ぼすことを論じた。

この議論から発展した両利きの経営論は、既存事業の効率化と新規機会の探索を両立させる組織能力に注目してきた(O'Reilly & Tushman, 2013 [oreilly2013])。

両利きの経営という表現に従えば、探索と深化は企業が用いる二つの「腕」に相当する。

ここで本稿は、一つの素朴な疑問を提起する。

両方の腕を十分に持たない企業は、どのように市場に存在しているのだろうか。

探索と深化の双方が低調な企業群そのものは、既存研究においても分類されている。例えばPeng et al.(2019) [peng2019]は、探索と深化の程度によって企業を四つの群に分類し、その一つとして双方が低い群を扱っている。

したがって、本稿は探索と深化がともに低い企業の存在を初めて指摘するものではない。

本稿の関心は、そのような企業のうち、外部環境によって存続可能性を保護されている企業にある。

本稿では、探索と深化を担う能力を「腕」、市場内の立ち位置を確保・保持する能力および条件を「脚」と呼ぶ。

この比喩に従えば、腕のない企業も、脚がある限り立っていることができる。

本稿は、このような企業の経営様式を「腕のない経営(Armless Management)」と名付ける。

1.3 研究目的と構成

本稿の目的は以下の三点である。

第一に、探索・深化・市場内位置の三次元を用いて「腕のない経営」を定義する。

第二に、企業内部の組織能力と外部の競争条件との相互作用から、腕のない経営が存続するメカニズムを整理する。

第三に、そのメカニズムから反証可能な理論命題を導出し、将来の実証研究に向けた測定方法を提案する。

本稿は既存研究を用いた概念的統合研究であり、企業への聞き取り、定量分析、実験その他の独自の実証調査を含まない。


2. 先行研究

2.1 探索・深化と両利きの経営

March(1991) [march1991]は、組織学習を、新しい可能性の探索(Exploration)と既存知識の深化・活用(Exploitation)の関係から論じた。

探索には実験、発見、変異、新規性の追求などが含まれる。一方、深化には改善、効率化、選択、実行、既存知識の活用などが含まれる。

両者は資源配分をめぐって競合し得る。

探索は成果が不確実で、利益が得られるまでの時間も長くなる傾向がある。一方、深化は既存の活動を対象とするため、成果を比較的早期に観測しやすい。

Marchは、この非対称性が組織の学習を既存知識の活用へと偏らせる可能性を示した。

その後の両利きの経営論は、探索と深化を両立させる組織構造や経営能力を検討している(O'Reilly & Tushman, 2013 [oreilly2013])。

しかし、探索と深化の双方が低調である企業において、存続条件としての市場内位置がどのような役割を果たすかは、これらの議論だけでは十分に説明できない。

なお本稿でいう「深化の低調さ」は、既存事業を実行していないことを意味しない。企業は既存業務を反復実行する一方で、その品質、効率、再現性、組織能力をほとんど改善しない場合がある。

本稿では、この既存業務の遂行と、その継続的改善を区別する。

2.2 X非効率と静かな生活

Leibenstein(1966) [leibenstein1966]は、企業が与えられた資源を常に効率的に利用するという仮定を批判し、X非効率の概念を提示した。

企業内部に改善可能な非効率が残存していても、それが必ずしも解消されるとは限らない。

またHicks(1935) [hicks1935]による独占と経営上の安逸に関する議論は、後にquiet life hypothesisとして展開されている。

Bertrand and Mullainathan(2003) [bertrand2003]は、買収圧力から保護された経営者が積極的な組織再編を控える傾向を実証的に検討した。

これらの研究は、競争圧力や外部からの規律が弱い場合、経営者が困難な改善活動を回避し得ることを示唆する。

ただし、X非効率論は主に既存資源の利用効率を扱う。またquiet life hypothesisは、経営者の選好と外部規律の関係に重点を置く。

本稿はこれらを、探索と深化の双方が低調になる企業の存続条件を説明するために利用する。

2.3 スイッチングコストとロックイン

Farrell and Klemperer(2007) [farrell2007]は、スイッチングコストとネットワーク効果が顧客を既存供給者に結びつけ、供給者に事後的な市場支配力をもたらし得ることを整理している。

顧客が供給者を変更するために大きな費用を要する場合、既存供給者の品質が低下しても、顧客は直ちに競合他社へ移行できない。

このことは、企業の業績と競争力の関係を複雑にする。

顧客維持率の高さは、必ずしも顧客満足度や製品競争力の高さを意味しない。

同様に、収益性の高さは、必ずしも企業内部の改善能力を意味しない。

顧客の移行困難性は、供給者が改善活動を減らしても売上を維持できる環境を形成し得る。

2.4 組織慣性とケイパビリティの硬直化

Hannan and Freeman(1984) [hannan1984]は、組織構造が変化に抵抗する傾向を構造的慣性として理論化した。

Leonard-Barton(1992) [leonard1992]は、既存のコア能力が新しい製品や工程の開発に対して硬直性として作用する場合を論じた。

さらにRepenning and Sterman(2002) [repenning2002]は、短期的な業務負荷への対応が長期的な工程改善を妨げるケイパビリティ・トラップを分析している。

これらの研究は、組織がなぜ改善しないか、あるいは改善できなくなるかを説明する。

しかし、改善しない組織が十分な収益を維持できる外部条件については、別の説明が必要となる。

2.5 既存研究との接続

以上の研究を整理すると、次のようになる。

研究領域 主たる関心 本稿への接続
探索・深化論 新規知識と既存知識への資源配分 腕の二つの機能
X非効率論 改善可能な内部非効率の残存 腕が十分に使われない状態
Quiet life hypothesis 外部規律と経営者の行動 改善しない誘因
ロックイン研究 顧客の移行困難性 市場内位置の保護
組織慣性論 組織が変化しにくい理由 低改善状態の持続
ケイパビリティ・トラップ 短期対応と長期改善の悪循環 腕が発達しない動学

本稿の理論的貢献は、これらの現象がそれぞれ存在することの指摘ではない。

探索・深化の低調さと、市場内位置による存続可能性の保護を、一つの企業類型および動学的メカニズムとして接続することにある。


3. 「腕のない経営」の概念定義

3.1 腕と脚

本稿では、企業の経営上の活動と条件を三つの次元で捉える。

第一は探索能力である。

これは新市場、新製品、新技術、新しい事業モデルなどを発見・実現する能力を指す。

第二は深化能力である。

これは既存事業における品質改善、費用削減、工程改善、標準化、自動化、組織学習などを実現する能力を指す。

第三は市場内位置である。

これは企業が市場内において確保している、競争や顧客離脱からの保護を意味する。

具体的には、参入障壁、契約、規制上の地位、顧客のスイッチングコスト、業界内の商流、情報非対称性などが含まれる。

本稿は前二者を「腕」、第三の次元を「脚」と呼ぶ。

ここで重要なのは、脚そのものも経営上の能力や資産であり得ることである。

例えば、長期的な顧客関係を構築する営業能力や、規制上の認可を取得・維持する能力は、それ自体として評価され得る。

したがって腕のない経営は、経営能力の全面的欠如を意味しない。

価値創造能力を拡張・改善する二つの機能が低調である一方、市場内の位置を確保する機能が相対的に強い状態を意味する。

3.2 形式的定義

企業 i について、以下の変数を定義する。

  • X_i:探索活動・能力の水準
  • E_i:既存事業の深化・改善能力の水準
  • P_i:市場内位置による競争圧力からの保護の程度

いずれも比較対象と期間を明示した上で測定するものとする。

腕のない経営の基本形を、次のように表現する。

AM_i = (X_i < \bar X) \land (E_i < \bar E) \land (P_i > \bar P)

ここで \bar X,\bar E,\bar P は、分析対象市場や業種に応じて設定される参照水準である。

ただし、探索・深化の低調さは、単なる投資額の少なさによって認定されるものではない。

合理的な改善機会が存在するにもかかわらず、改善が進んでいないこと、または新規探索を実行可能な組織能力が乏しいことを確認する必要がある。

同様に P_i は単なる市場占有率ではなく、企業の品質や費用構造が競争相手より劣っていても、顧客や収益を維持し得る程度を意味する。

3.3 経営類型の整理

探索と深化を二軸とすると、次の四類型を区別できる。

深化が高い 深化が低い
探索が高い 両利きの経営 探索偏重型
探索が低い 深化偏重型 低探索・低深化型

このうち低探索・低深化型のすべてが、腕のない経営に該当するわけではない。

低探索・低深化で市場内位置も弱い企業は、競争環境によっては存続が困難になる。

一方、低探索・低深化でありながら強い市場内位置を持つ企業は、能力不足が直ちに収益の減少や市場退出につながるとは限らない。

本稿が「腕のない経営」と呼ぶのは、この後者である。

すなわち、腕のない経営は単なる第四象限ではなく、第四象限に第三の次元である市場内位置を加えることによって成立する企業類型である。

3.4 位置的レントへの依存

企業が獲得する利益には、効率的な生産、優れた製品、希少な能力などから生じる部分と、競争上の保護によって維持される部分がある。

本稿では後者に注目し、競争上の保護に由来する超過利潤を便宜的に「位置的レント(Positional Rent)」と呼ぶ。

位置的レントは、単に市場に参加しているだけで得られる収益ではない。

顧客にとっての代替可能性が低いこと、競合の参入が困難であること、既存契約が長期間維持されることなどに由来する。

なお、位置的レントは必ずしも不当な利益ではない。革新によって生み出された顧客基盤、知的財産、ネットワーク効果なども、競争上の保護を形成し得る。

したがって、腕のない経営を識別するためには、レントの存在だけでなく、それに依存する一方で探索・深化が低調であるという組合せが必要である。


4. 腕のない経営の存続メカニズム

4.1 市場内位置による競争圧力の遮断

通常、企業が製品の品質を低下させたり、改善活動を怠ったりすれば、競争相手への顧客流出によって不利益を被る可能性がある。

しかし、顧客の切替費用が高い場合、その関係は弱まる。

例えば、既存システムからの移行に大きな費用が発生する企業間取引では、供給者の品質改善が不十分でも、顧客は既存契約を維持する可能性がある。

市場内位置が強い企業では、品質改善による顧客維持効果が、競争の激しい企業より小さく観測され得る。

この場合、経営者が改善活動の費用と期待利益を比較すると、改善投資の優先順位が低くなる可能性がある。

これは経営者が必ずしも非合理的であることを意味しない。

企業の長期的な組織能力を低下させる判断が、現在の競争条件の下では短期的に合理的となり得るのである。

4.2 顧客側の評価能力による規律の弱化

市場競争が供給者の改善を促進するためには、顧客が供給者間の価値の違いを認識し、選択に反映できる必要がある。

しかし、専門性の高いサービスやシステムでは、顧客がその品質を十分に評価できない場合がある。

例えば、顧客がソフトウェアのアーキテクチャ、テスト可能性、運用自動化、障害時の復旧能力などを適切に評価できない場合、供給者間の品質差が購買行動に反映されにくくなる。

顧客の評価能力と製品革新との関係については、Oh et al.(2022) [oh2022]などの研究も存在する。

本稿が注目するのは、これとは逆方向の可能性である。

すなわち、顧客の評価能力が十分でない市場では、供給者が改善を行わなくても競争上の不利益を受けにくくなる可能性がある。

ただし、顧客側の能力不足は、顧客一般の知的能力の低さを意味しない。特定の取引対象について評価・比較・移行するための情報、専門知識、権限、時間、予算が不足している状態を指す。

4.3 市場内位置への依存が生む自己強化

腕のない経営は、一時的な状態にとどまらず、自己強化的な均衡を形成し得る。

その基本的な因果関係は次のように表せる。

\begin{aligned} &\text{市場内位置の保護}\\ &\downarrow\\ &\text{品質・効率の差による競争圧力の弱化}\\ &\downarrow\\ &\text{探索・改善投資の優先順位低下}\\ &\downarrow\\ &\text{組織能力の相対的停滞}\\ &\downarrow\\ &\text{収益維持における市場内位置への依存拡大} \end{aligned}

この循環は、外部の競争圧力が弱いほど成立しやすいと考えられる。

また改善活動の不在は、改善の経験自体を減少させる。

その結果、組織は改善能力を獲得する機会を失い、次に改善が必要になった際の実施費用が増加する可能性がある。

この点はRepenning and Sterman(2002) [repenning2002]のケイパビリティ・トラップと接続できる。

腕のない経営は、単に能力が不足している状態ではない。

能力を改善しない状態が市場内位置によって許容され、その結果として能力不足がさらに固定化される状態として理解できる。

4.4 簡単な動学モデル

企業の組織能力ストックを K_t とし、次のような単純化したモデルを考える。

K_{t+1} = (1-\delta)K_t + \alpha_t X_t + \beta_t E_t

ここで、

  • K_t:時点 t の組織能力
  • \delta:能力の陳腐化・散逸率
  • X_t:探索活動
  • E_t:深化・改善活動
  • \alpha_t,\beta_t:それぞれの活動が能力形成に寄与する程度

を表す。

探索や改善の成果は不確実であるため、\alpha_t,\beta_t は一定の正値を保証されるものではない。本式は能力形成を概念的に表現するものであり、実証的な推定式ではない。

ここで、ある企業が市場内位置 P_t によって既存の収益を維持できるとする。

この企業は、少なくとも短期的には X_t,E_t を小さくしても存続できる。

一方で、能力の陳腐化が続く場合には、

K_{t+1}<K_t

という状態が生じ得る。

このとき外部の競争環境が変化せず、位置的レントが維持されれば、企業は能力を低下させながら存続することになる。

ところが、規制変更、新規参入、顧客の移行能力向上などによって P_t が急速に低下すると、内部能力によって競争する必要が生じる。

その時点で、長期間蓄積された組織能力の不足が顕在化する。

したがって、腕のない経営には、外部環境が安定している間は存続できるが、保護条件が失われると急激に競争上の脆弱性が現れるという特徴が予想される。


5. 理論命題

前章のモデルから、以下の命題を導出する。

命題1:市場内位置による低能力企業の存続

探索・深化の水準がともに低い企業では、市場内位置による競争上の保護が強いほど、短中期の存続可能性が高くなる。

市場内位置が企業内部の能力不足を部分的に補償するためである。

ただし、この命題は無条件の高収益を意味しない。企業の費用構造や需要環境によっては、市場内位置が強くても赤字となる場合がある。

命題2:市場内位置による改善誘因の低下

市場内位置による保護が強く、品質改善が需要や収益に反映されにくい企業ほど、既存事業の改善投資を抑制する傾向が強まる。

この命題は、経営者の評価制度や意思決定期間が短期的な利益を重視する場合に、より強く成立すると予想される。

命題3:顧客の評価能力と供給者の深化

顧客の技術的・経済的な評価能力が低く、かつ供給者変更が困難な市場では、供給者の改善能力と市場成果の関係が弱くなる。

この場合、顧客は供給者の工程改善、運用効率、技術的品質などを十分に観測できず、それらへの投資を促す競争圧力が低下する。

命題4:組織学習の局所化

市場内位置による保護が強く、改善活動に対する経営上の誘因が弱い企業では、個別案件から得られた経験が組織横断的な能力へ転換されにくい。

企業が複数の顧客や案件を抱えていても、その経験が共通製品、標準工程、再利用可能な知識、教育体系などに変換されなければ、事業拡大に伴う能力形成は限定される。

この命題は、顧客数や案件数の増加が自動的に組織学習を意味するわけではないことを示す。

命題5:市場内位置の喪失と急激な脆弱化

探索・深化の水準が低く、市場内位置への依存が高い企業では、参入障壁やスイッチングコストの低下が、同程度の市場規模を持つ高能力企業より大きな負の影響を及ぼす。

長期間にわたり能力形成を怠ってきた企業は、競争圧力が増加しても短期間で十分な能力を獲得できない可能性がある。

命題6:収益による能力不足の不可視化

市場内位置によって収益が維持される企業では、収益性を経営能力の代理指標として利用するほど、探索・深化の不足が経営上の問題として認識されにくくなる。

この場合、収益性は単に企業存続を可能にするだけでなく、組織内部における現状肯定の根拠として作用する可能性がある。

以上の命題は理論的予測であり、本稿によって実証された事実ではない。


6. 思考実験:腕のない経営の具体的な構造

本節では、概念の適用可能性を説明するため、二つの仮想的な企業を検討する。

以下の事例はいずれも実在企業についての調査結果ではなく、本稿の理論から構成した思考実験である。

6.1 事例A:金融システムの開発・運用受託企業

企業Aは、複数の金融機関に対して注文管理システム、注文ルーティングシステム、マッチングエンジンなどの開発・運用サービスを提供している。

複数顧客に共通する基本的なアルゴリズムやシステム構成が存在する一方で、各顧客には独自の市場接続仕様、業務ルール、運用手順、承認工程が存在する。

企業Aは顧客ごとに開発・運用プロジェクトを立ち上げ、個別の要件調整、テスト、運用設計を行っている。

顧客数は増加しているが、新規顧客の導入期間や運用負荷は十分に減少していない。

また、各案件の品質保証活動で得られた知見は個別の不具合修正に利用されるものの、共通アーキテクチャや自動テスト基盤の改善には十分に還元されていない。

この場合、顧客数の増加は必ずしも高いスケーラビリティを意味しない。

複数顧客から得られた経験が、共通基盤の改善に変換されないためである。

それでも、顧客側のシステム移行費用、専門的な市場接続に伴う参入障壁、既存契約、調達先変更の困難性によって事業が維持されている可能性がある。

この企業について確認すべきなのは、単なる顧客数や売上高ではなく、次の点である。

  • 顧客追加に伴う限界費用が減少しているか。
  • 顧客別の要件差分が共通設計へ還元されているか。
  • 案件で発見された問題が共通テスト資産へ反映されているか。
  • 開発・導入・運用工程の標準化が進んでいるか。
  • 顧客数増加と従業員数増加の関係が変化しているか。

これらが改善していない場合、同社の事業拡大は、組織能力の深化ではなく既存の受託業務の量的拡大である可能性がある。

ただし、金融システムにおける顧客情報の分離や個別の認証試験には、正当な法的・技術的理由が存在し得る。

したがって、個別工程の存在だけをもって非効率と判断することはできない。問題は、共通化が合理的に可能な範囲においても、能力形成が進まないことである。

6.2 事例B:移行困難性に依存する業務システム企業

企業Bは、特定業界向けの基幹業務システムを長年提供している。

顧客はこのシステムを中心に業務を構築しており、他社製品へ移行するには、データ移行、業務手順の変更、教育、連携システムの改修などが必要となる。

企業Bのソフトウェア開発工程は古く、自動化も限定的である。

機能改善の速度は遅く、システム構造の複雑化も進んでいる。

しかし、顧客は高額な移行費用と業務停止リスクを考慮し、既存システムを利用し続けている。

企業Bは高い継続率を維持し、安定的な収益を得ている。

この事例では、企業の収益性と組織能力との間に乖離が生じている可能性がある。

さらに、企業Bが顧客の継続利用を自社製品の品質に対する肯定的な評価と誤認すると、改善投資の必要性を過小評価する可能性がある。

ここでは、

「顧客が利用し続けている」

という事実から、

「顧客が現在の品質を積極的に選好している」

という結論を導くことはできない。

前者は観測事実であるが、後者は顧客の選択可能性を考慮した上で検証されるべき仮説である。

6.3 二つの事例に共通する特徴

両事例に共通するのは、企業が一定の事業活動を遂行し、顧客に何らかの価値を提供していることである。

本稿は、これらの企業が全く価値を創造していないと主張するものではない。

しかし、探索・深化の活動が限定的であるにもかかわらず、競争上の保護によって収益を維持できる可能性がある。

つまり、現在の事業を遂行する能力と、現在の事業を改善・発展させる能力は区別されなければならない。

この区別が、腕のない経営という概念の基礎にある。


7. 測定可能性と今後の実証研究

腕のない経営を単なる比喩ではなく分析概念として利用するためには、三つの次元を観測可能な指標に変換する必要がある。

7.1 探索・深化・市場内位置の測定

想定される指標は以下のとおりである。

次元 主な指標の候補
探索 新規事業への投資、新市場参入、実験の実施、技術探索、探索成果の事業化
深化 工程改善の成果、生産性向上、品質改善、標準化率、自動化率、開発・導入期間の短縮
市場内位置 顧客の移行費用、契約継続期間、参入障壁、代替供給者の数、規制上の保護
顧客評価能力 技術評価体制、品質比較の実施、調達時の検証項目、代替案の評価能力
企業成果 収益性、顧客継続率、市場占有率、労働生産性、存続期間

ここで探索と深化については、投入量と成果を区別する必要がある。

研究開発費を多く支出していても、探索能力が高いとは限らない。

同様に、改善活動の会議や研修を多数実施していても、実際に工程改善が進んでいるとは限らない。

特に深化の測定では、継続的な業務遂行と実質的な改善成果を区別することが重要である。

7.2 競争圧力の変化を利用した検証

本稿の命題を検証する方法として、競争条件が変化した企業の比較が考えられる。

例えば、以下のような外生的変化が候補となる。

  • 規制改正による新規参入の容易化
  • システム間の相互運用性向上による移行費用の低下
  • 公共調達制度の変更
  • 特定業界における新規競争者の参入
  • 顧客側の技術評価能力の向上

こうした変化の前後で、企業の収益性、顧客継続率、品質改善、事業再編などを比較する。

とりわけ、事前の探索・深化水準が低い企業ほど、競争上の保護が失われた際に業績悪化が大きくなるかを検討することが重要である。

これは命題5の検証に対応する。

7.3 顧客側の能力を含む分析

従来の企業能力研究では、供給者側の能力を主要な説明変数として扱うことが多い。

しかし本稿のモデルでは、顧客側の評価能力も重要な変数となる。

同じ製品品質であっても、技術的に高度な評価を行う顧客と、比較・検証能力が不足している顧客では、供給者に対する改善圧力が異なる可能性がある。

そのため、今後の研究では、企業内部の能力だけでなく、顧客がどの程度供給者の品質を評価できるかを考慮した分析が求められる。

7.4 代替説明との識別

腕のない経営を実証的に識別する際には、以下の代替説明を排除する必要がある。

第一に、技術的に成熟した市場では、探索や大規模な改善が合理的に少ない場合がある。

第二に、規制の強い産業では、標準化や安全性確保のため、製品変更が制限される場合がある。

第三に、高い利益率は企業の過去の研究開発、優れた製品、希少な資産によって正当に獲得されている可能性がある。

第四に、改善活動が外部から観測しにくい場合がある。

したがって、投資額が少ないこと、製品の変更頻度が低いこと、顧客継続率が高いことだけでは、腕のない経営と認定できない。

合理的に実行可能な改善機会と、実際の能力形成の双方を検討する必要がある。


8. 考察

8.1 組織能力と市場内位置を混同する危険

企業の業績は、その企業の能力だけで決まるわけではない。

競争環境、需要構造、制度、契約、既存資産、顧客の行動などが複合的に作用する。

しかし、企業が利益を上げているという事実は、しばしば自社の経営能力が高いことの証拠として解釈される。

この推論には注意が必要である。

高い収益性は、探索・深化の成果を反映している場合もあれば、市場内位置による競争上の保護を反映している場合もある。

したがって、

\text{高い収益性} \not\Rightarrow \text{高い組織能力}

である。

この区別は、資源ベース論やダイナミック・ケイパビリティ論とも関連する(Peteraf, 1993 [peteraf1993]; Teece et al., 1997 [teece1997])。

市場内での優位な位置そのものが価値を持つことは否定されない。しかし、その位置を保持する能力と、新しい価値を探索・深化する能力は同一ではない。

8.2 市場は必ずしも組織を学習させない

競争が企業の効率化を促すという考え方は広く受け入れられている。

実際、Bloom and Van Reenen(2007) [bloom2007]は、製品市場の競争が弱い環境では、不適切な経営慣行が多く観測されることを示している。

しかし、この関係を逆方向から見ると、別の含意が得られる。

競争圧力が弱い市場では、企業が改善しなくても存続できる場合がある。

その結果、市場で存続しているという事実だけでは、企業が有効な組織学習を行っていることを保証しない。

これは、企業の生存が市場による十分な能力選別を意味しないという問題である。

市場における存続は、能力の高さによる場合もあれば、退出圧力の弱さによる場合もある。

市場は企業の行動を選別するが、必ずしも望ましい組織能力だけを選別するわけではない。

8.3 組織学習を妨げる選択圧

腕のない経営においては、組織内部にも特有の選択圧が生じ得る。

例えば、既存工程を改善するには、短期的に業務負荷が増加する場合がある。

一方、改善を行わなくても収益が維持されるなら、現状維持は短期的な組織評価において有利になり得る。

その結果、改善提案よりも既存の手順を維持する行動が評価される可能性がある。

改善を推進する人員は、組織内の調整費用や抵抗を負担する。一方、現状維持を選択する人員は、既存の収益によって判断の妥当性を主張できる。

こうした条件が続くと、企業内部では、組織能力を改善する人材よりも、既存の制度に適応する人材が相対的に残存しやすくなる可能性がある。

ここで問題となるのは、個人の学習能力が低いこと自体ではない。

学習した結果を組織の活動へ反映することが、個人にとって不利になる可能性があることである。

この場合、企業の外部環境による保護と、内部の組織慣性が相互に強化されることになる。

8.4 腕のない経営とゾンビ企業の相違

腕のない経営は、いわゆるゾンビ企業とは区別される。

Caballero, Hoshi and Kashyap(2008) [caballero2008]が扱うゾンビ企業は、主に金融機関による融資の継続によって市場退出を免れている企業である。

これに対して腕のない経営は、企業が自らの事業から収益を確保している場合も含む。

外部からの資金援助なしに存続できる企業であっても、組織能力の改善が低調で、競争上の保護に依存している場合には、本稿の概念に該当し得る。

両者は企業の存続を可能にする条件が異なる。

ゾンビ企業が金融上の保護によって存続するのに対して、腕のない経営企業は市場内位置による保護によって存続する。

もっとも、両者が重複する場合も考えられる。

8.5 経営評価への含意

腕のない経営という概念は、企業評価における二つの異なる問いを明確に区別する。

第一は、その企業が現在どの程度の収益を生み出しているかという問いである。

第二は、その企業が将来に向けてどのような能力を形成しているかという問いである。

両者は関連しているが、同一ではない。

例えば、既存の市場内位置を利用して高い利益を上げる企業が、探索や深化によって将来の競争力を形成しているとは限らない。

反対に、現在の収益性が低い企業であっても、組織能力の形成によって将来の価値創造に備えている場合がある。

したがって、経営評価では現在の収益だけでなく、その収益がどの程度企業内部の能力に依存しているか、そしてその能力がどの程度再生産・発展されているかを検討する必要がある。

この区別は、企業価値評価にも含意を持つ。

高い企業価値評価が創業者の過去の実績、業界内の信用、将来の期待などに基づいている場合、それを組織全体の再現可能な能力と同一視すべきではない。

市場における位置、組織能力、事業モデルのスケーラビリティ、経営者個人への期待は、それぞれ別個に評価されるべき対象である。


9. 本研究の限界

本稿には複数の限界が存在する。

第一に、本稿は概念論文であり、腕のない経営に該当する企業の存在割合、収益性、存続期間、組織能力などを実証的に確認していない。

第二に、先行研究の整理は理論構築を目的とした選択的な文献検討であり、網羅的・体系的文献レビューではない。

そのため、本稿が提案する概念と同一または近接する概念が、既存研究において別の名称で扱われている可能性を排除できない。

第三に、探索と深化の水準を測定するには、産業や企業の成熟度を考慮する必要がある。

特定の時点で探索や改善が少ないことは、直ちに非合理性や能力不足を意味しない。

第四に、市場内位置の強さと企業内部の能力との関係には内生性が存在する。

優れた製品や技術によって顧客ロックインが形成される場合もあり、市場内位置が強い企業ほど能力が低いと単純に推論することはできない。

第五に、本稿の動学モデルは概念的な説明を目的とするものであり、各変数の因果関係や係数を推定したものではない。

したがって、本稿の命題を一般的な経験的事実として扱うことはできない。

これらの限界を踏まえ、今後は比較事例研究、企業パネルデータ分析、競争条件の変化を利用した準実験的研究などによって、本稿の命題を検証する必要がある。


10. 結論

本稿は、探索と深化の双方が低調でありながら、市場内位置によって収益を維持する企業の経営様式を「腕のない経営」として概念化した。

両利きの経営論が探索と深化という二つの能力の両立を論じるのに対して、本稿は、それらの能力が十分に発達していない企業の存続条件に注目した。

その結果、参入障壁、顧客ロックイン、情報非対称性、規制上の地位などが、企業内部の能力不足を補償し得ることを理論的に整理した。

さらに、このような市場内位置による保護が、改善投資の誘因を低下させ、組織能力の停滞を長期化させる自己強化的なメカニズムを提案した。

企業が市場において存続していることは、企業の組織能力が優れていることを必ずしも意味しない。

同様に、企業が高い収益を得ていることも、探索と深化に成功していることを保証しない。

企業は価値創造能力によって競争する場合もあれば、既に確保した市場内位置によって競争から部分的に保護される場合もある。

本稿は、この両者を区別するための概念として「腕のない経営」を提示した。

「腕のない経営」という表現は比喩的である。しかし、それが指摘するのは、単なる経営能力の不足ではなく、市場における存続と組織能力の発展との間に存在し得る構造的な乖離である。

探索する腕も、深化する腕も十分には持たない。しかし、市場に立ち続けるための脚は持っている。

腕のない経営とは、そのような企業の存続を可能にする市場構造と組織行動の組合せである。


参考文献

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注記:本稿は既存研究の概念的統合によって構成された理論的試論である。第6節の事例は説明のために構成された架空事例であり、特定の実在企業に関する実証的判断を示すものではない。また、本稿で提示した命題の経験的妥当性は未検証である。

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Sources / References

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